インタビュー

事業をゼロから立ち上げる苦しさも楽しさも知っている。だからこそ地域の産業創出に尽力するひと

地域開発事業部 部長を務める福田裕士の代名詞は、ブランド豚『福幸豚』の立ち上げと地域からメガベンチャーの創出を目指す『地域テックプランター』だ。リバネスに入社して間もない頃に福幸豚でゼロイチを経験した福田は、「ビジネスの拡大は一人ではできない」という学びのもと、今は地域のベンチャー企業の伴走に注力している。ゼロイチの経験で福田はどのような試行錯誤をしたのか。そして、その情熱はどのように変容し、進化していったのかを聞いた。

福田裕士 (Yuji Fukuda)
地域開発事業部 部長 奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科分子生物学専攻修士課程修了 修士(バイオサイエンス)。大学院修了後、飼料販売会社の直営養豚場にて1年半の期間、農場に従事し、2009年にリバネスに転職、沖縄事業所に赴任した。 沖縄では福幸豚の開発に携わり、生産・販売の事業を立ち上げを行い、2016年からは熊本に着任し、熊本テックプランターの立ち上げを行う。その後、大阪での活動を経て、現在は東京本社に所属する。

※リバネスは、2009年に沖縄事業所を設立。2017年からは生産技術研究所へと組織変更し肉用山羊生産振興や山菜利活用などの生産技術にフォーカスした研究開発を加速。2021年に、生産技術研究所を解消し、株式会社アグリノーム研究所(代表取締役:宮内陽介、西岡一洋)へと発展的に改組した。

ブランド豚をつくるため、リバネスに戻ってきた

リバネス社内で福田さんといえば、ブランド豚『福幸豚』を立ち上げたことで知られていますよね。いつ頃から養豚に興味を持ち始めたのでしょうか?

元々動物が好きで、動物のことを勉強したくて、麻布大学獣医学部動物応用科学科に進学しました。ただ、当時は豚ではなく、イルカのトレーナーになりたいと思ってました(笑)。

福田さんにイルカのイメージはなかったです(笑)。

イルカのトレーナーは人気な職業かつ、人が補填されることも少ないので、とても倍率が高くて諦めてしまいました。そんな時に、病気で臓器移植を待つ人に豚の臓器を移植するというニュースを見まして。「学んでいる動物医療が、人の役に立つ可能性があるんだ」と大きな衝撃を受け、奈良先端科学技術大学院大学バイオサイエンス研究科で再生医療を学ぶことを決めました。修論では、DNAからタンパク質が生成される仕組みを追究するため、『ショウジョウバエにおけるnon-coding RNAの機能解析』というテーマで書きました。

修士課程の際にリバネスでインターンをしていたと伺いました。どのようなきっかけでインターンをしようと思ったのでしょうか?

修士課程後の進路として、理科教員を思い描いた時期がありました。それで教員になる前に子どもに科学を教える経験をしておきたいと考えて、出前実験教室を提供していたリバネスでインターンをしたんです。リバネスが創業した3年後の2005年頃ですね。まだ関西本社はなく、学生が週1回有志で集まり、出前実験教室の準備をしていました。当時は会社というよりは、大学のサークル活動のような雰囲気でした。

ただ、インターンからそのままリバネスに入社したわけではないですよね?

そうですね。修士課程後は飼料販売会社の直営養豚場に就職しました。その理由は、自分は研究の世界に進むよりも、社会に出た方が大きな価値を生み出せると思ったからです。研究室には、週刊科学ジャーナル『Nature』や科学雑誌『Science』に研究成果が掲載されるような“すごい先輩たち”がいました。私は残り3年間を「そのまま博士に進んだ数年間」と「社会に出た数年間」のどちらが、自分にとっても社会にとっても、価値あるものになるのか。それを考えた際に、私は研究を社会に現場で生かしていくことをやりたいと思い、社会にでることを選びました。

では、自分は社会に出て何をすべきか、社会に大きなインパクトを与えるためにはどこに身を置くべきか。当時私が出した答えが、養豚場に就職することでした。「動物を研究していたことを活かす」「課題が深刻な現場に身をおく」という2つの軸から導いた選択でした。畜産業界では、人材不足や、研究の内容が現場に広まっていないなどの問題が深刻化しています。それらの課題を解決するためにも、「自分でブランド豚を消費者に届けられるような仕組みを作りたい」という目標を掲げて就職しました。

なぜ豚を選んだのでしょうか?

「育てやすさ」と「コスト」という2つの観点から豚を選びました。例えば牛は、出荷までに時間がかかる上に、食べるものが牧草やトウモロコシなどに限られており、飼料価格の高騰を受けやすい。鳥は育つまでに時間がかからないものの、一羽あたりの単価が低い。また、鳥の体に合わせて餌を小さくする必要があり、そこにもコストがかかります。その点、豚は6ヶ月程で出荷が可能で、雑食ゆえに何でも食べてくれる。つまり自分の挑戦に最適な対象として、戦略的に養豚を選びました。

養豚場での仕事は福田さんにとってどのような経験だったのでしょうか?また、2009年にリバネスに戻ってきた理由を教えてください。

養豚はとてもやりがいのある仕事でした。また、リバネスのインターンでプロジェクトの進め方を経験していたことも活きました。会社説明会を開催したり、ブログで発信をしたり、様々な仕事を任せてもらえるようになりました。

それでもリバネスに戻ってきた理由は、挑戦を後押ししてくれる環境がいかに大切か、ということに気づいたからです。実は養豚場では、「ブランド豚を作りたい」と伝えると「前例がないから難しい」と断られました。一方リバネスは、「いいじゃん!やりなよ!」と10人中10人が背中を押してくれる。この環境は挑戦者にとってありがたいものだと気づき、戻ることを決意しました。

新たな土地で、はじめての事業

入社とほぼ同時に沖縄事務所に赴任したと伺いました。当時、リバネスが沖縄で活動していた背景や福田さんが赴任になった経緯を教えてください。

沖縄事業者の開設のきかっけは、当時沖縄は学力テストの成績が低迷しており、沖縄科学技術大学院大学も開学を控えているという点、そして当時リバネスが技術的なサポートに注力していた株式会社ユーグレナの生産拠点が沖縄だったからです。例えば、沖縄の子供達がサンゴは身近な存在であるものの環境における役割を知らなかったり、沖縄の農産物も伝統的な料理として沖縄の長寿を支えてきたものの健康にどう寄与しているのかわからないなど、サイエンスやテクノロジーの視点が求められており、そこにリバネスも活動を広げました。私が沖縄に赴任したのは、養豚事業をやるには、豚足料理のてびちやミミガー(豚の耳)など豚食文化が豊かな沖縄が最適だと考えたことも理由の一つです。

ですが実際は、ブランド豚『福幸豚』を立ち上げるまでは、試行錯誤の連続でした。沖縄は豚食文化があるものの、豚は輸入に依存しており、高齢化も相まって養豚場の数は減少しています。ブランド豚を一緒に開発する養豚場がなかなか見つからず、かといって養豚場を買い取るにはかなりの資金が必要になります。八方塞がりでなかなか一歩を踏み出せずにいると、「自分でかってみたらどうだろうか」とふと思い、行動に移しました。

飼ったんですか?

知り合いの養豚場から1万4000円で購入して、チャレンジしました(笑)。豚の飼い方は熟知しているものの、設備が整っていない中で育てるのは大変で……。結局、その豚は購入した養豚場にお返しすることになり、改めて仕切り直しをしました。

そこからどのように福幸豚を生み出したのでしょうか?

きっかけとなったのは、沖縄県と共同で開発していた発酵飼料です。地域未利用資源を活用するために、シークヮーサーやアセロラを用いた発酵飼料を作っていました。その発酵飼料で豚を育ててみると、一般の豚に比べて脂がとける温度が10度も低く、甘くて、後味がさっぱりとした豚になりました。養豚業や精肉販売を営んでいる株式会社宮城ファーム(当時は合資会社オキスイ)が仲間になり、特別配合した飼料を給餌して、豚を育成。それをリバネスが一頭丸々購入するという流れを構築しました。

そして2010年に誕生したのが『福幸豚』です。名前は、「食べた人に幸せを届ける」ということで「幸福」から取りました。また、私(「福」田裕士)が作り、リバネスグループ代表の丸(丸「幸」弘)が売ろうという意味も込めています。

販売から約6年間で396頭の出荷を達成しました。また、沖縄、東京、神奈川、兵庫の13もの飲食店が購入してくれていました。しかし、豚を育てて出荷するまでの全ての工程をカバーするには、仲間や資金が必要で、豚肉を販売するという事業だけでは継続はできないという判断になりました。

その後、豚の事業はどう発展したのですか?

福幸豚をきっかけとして、未利用資源の飼料化やブランド畜産物の構築に関する知識を得ることができました。そこで、培った知識を多くの方が持つ知識と組み合わせて、もっと畜産を活性化していきたいと考えました。その結果、5つのブランド畜産物の構築を達成。畜産現場にいた時に感じていた、もっと多くの方々に畜産の業界にかかわることで業界が活性化するのではないかという思いを実現し、畜産コミュニケーターとして畜産に新しい価値を生み出していくという自分自身の目標ができました。現在では、畜産ベンチャーの方々と共に、畜産現場への技術の実装に取り組んでいます。

一つ一つの蓄積の先に産業を創る

福田さんにとって福幸豚の立ち上げはどのような経験だったのでしょうか。

苦労も多かったですが、ゼロイチの楽しさを知りました。また、今も心に留めている学びもあります。それは、事業を継続させることがどれだけ大変かということ。そして、一人では事業を成立させることはできないということです。福幸豚を運営していた頃は、一人で養豚業界の課題を解決しようとしていました。しかし大事なのは、ビジョンを発信することで様々な業種・業界の人たちを巻き込み、協力していくことだと事業を立ち上げて初めて気付かされました。

その後、福田さんは熊本でテックプランターの立ち上げに携わることになります。福幸豚から熊本テックプランターへの転換は、大きなものだったのではないでしょうか?

今もリバネス社内では「福田=養豚」という印象を抱かれることが多いです。もちろん大好きな領域ではありますが、養豚だけに固執しているわけではありません。いちばん大事にしているのは、当時無謀な挑戦を掲げていた私に「やりなよ!」と言ってくれたリバネスのように、次は誰かの挑戦を後押しできる存在になりたいということです。そして、福幸豚では実現できなかった「事業を1→10にする」というプロセスを、今度は伴走する立場として実現したい。そんな想いで熊本テックプランターを主導しています。

2016年に熊本県からスタートし、現在は12地域で「地域テックプランター」を開催。地域の金融機関や自治体、企業とともに、地域からベンチャー企業が生まれ続け、成長するためのエコシステム構築を目指しています。

熊本テックプランターでの私の目標は、参加したチームからIPOを果たす会社を出すことです。それらを積み重ねた先に、産業創出があると考えています。一社のIPOだけでは産業になりませんが、それをきっかけに人が集まり、いずれ産業となるはずです。世界を変える可能性がある技術に光をあて、地域を変えるビジネスを目指して、今後もベンチャー企業の伴走に尽力していきます。

入社15年目(2024年8月時点)になりますが、これからリバネスでどんなことに挑戦していきたいですか?

地域開発事業部の部長として、やはり日本の地域を活性化したいという想いが強いです。今まで沖縄、熊本、大阪という地域で活動してきて、「地域で挑戦したいけど何から始めたらいいかわからない」「起業してみたが、事業が拡大できない」という気持ちを抱いている人たちが地域にはたくさんいると分かりました。その人たちはどうすれば壁を乗り越えることができ、そして次にぶつかる壁はどのようなものなのか。私自身のゼロイチの経験を踏まえて道筋を示し、挑戦者の熱を地域から日本全国に広げていきたいです。

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